拝啓 諏訪哲史様 by.お先生


諏訪哲史
この文章を読まれることはないでしょうが、
それでも言わずにおけぬこの性分。
ちょっと一言言わせて頂くことにします。


あなたの読売新聞夕刊(火曜日)連載、
あの種村季弘の弟子ということで、
興味もありますから、きちんと読ませていただいています。


さて、今まで書かれていることに特段異論はありませんでしたが、
本日(12月4日)の内容は些か得心がゆきません。
横光利一の「花園の思想」の本文を挙げて
百年生き延びる文章とは何たるか、を説いたあなた。
「強靭な文体と表現力、そして瑞々しい感性を持った文章だけが百年を生き延びる」
と仰っています。
抽象的ですが、確かにその通りだと私も思います。
百年前の作家として挙げたのは
二葉亭、漱石、鴎外、露伴といった早々たるお歴々。
それらでさえ、「表現力と感性のない者は有象無象の類に括られてゆく」と、
あなたの仰るところの「水戸黄門一族」(『繰り返し垂れ流される亜流』という意)との戦いとも重ねて
「評価の怖さ」を語っておられます。
前回の連載からも続くテーマ、文学に多用される「死と愛」について、
「横光も、堀辰雄野菊の墓も、火垂るの墓も、八つ墓村も」
生き残ってきたのは
「『死と愛』があるからではなく『表現力と感性』があるから」だと仰っておいでです。
あなたは更に続けます。
「『死と愛』を文学のテーマとして用いるのは
実体験を得た作家なら当然の欲求である。
だが、もしこれをこの現代、実行に移すのなら、
どうしても先の作品群を越える傑作でなくては価値がない。
現時点でなら、あの『ノルウェイの森』以上のもの」と。
そして、
「でなければ、それは作家の自慰行為に過ぎない」
「これが後続作家の不可避な制約であり、礼儀であり、覚悟」だと。


私も、ものを書く端くれとしましては
よく「作品を生み出すことと自慰行為の違い」については考え、
人とも語ります。
あなたの仰る「水戸黄門一族」との戦いは、ものを書く上で果てしなく続くでしょう。
自分が生み出すものがより自慰から区別され、より崇高であることを目ざして戦うのです。
しかし、これは私だけでなく、実は誰もがそう思っているのかも知れません。
私たちが完全に「自慰行為の果ての排泄物」だとみなしている作品を
生んだ人でさえも。


「死と愛」がテーマである文学作品を「自慰であるか、否か」を判断する基準として
ノルウェイの森』をあげるのは何故でしょう。
先の作品群を越える傑作でなければ価値がないと仰るのなら
何故、百年生き延びた作品を判断基準とされないのでしょう。


あなたの作品自体を、『ノルウェイの森』などではなく、
「強靭な文体と表現力、そして瑞々しい感性を持った百年生き延びた」文学作品と比較された上で、
「それ以上の傑作でなければ、それは作家の自慰行為に過ぎない」
「これが後続作家の不可避な制約であり、礼儀であり、覚悟」である、
と仰ることが何故出来ないのでしょう。
紙幅が足りなかっただけかも知れませんが、
私はあなたにそう仰っていただきたかった。
「自分の作品は百年生き延びた文学と比較した上で、
傑作であり、これは単なる作家の自慰行為ではない。
これ以上の作品を生み出すことが後続作家の不可避な制約であり、礼儀であり、覚悟」であると。
あなたが、天才・澁澤龍彦と並べ称されもする種村季弘の弟子だと仰るのなら。
しかし、あなたがそれを本当に口にするならば、
とてつもなく陳腐に聞こえてしまうのは何故でしょう。
その答えはあなた自身がお分かりなのではないでしょうか。